1967年発行の中公新書版「発想法」は2003年時点で78版になっている大ベストセラーである。まえがきやあとがきは、後年書き加えられたものだが、基本的内容はそのままである。
KJ法の技法を伝える書物としては、ここに書かれている情報だけでは不十分であり、この本を読んでも川喜田が意図したKJ法を行うことできない。
では、役に立たないのかといえば、その逆なのである。1976年40版時に書かれた「まえがき」には次のようにある。
「この本はKJ法の実技的な手引き書としては簡略にすぎるので・・・(中略)・・・とはいえ、この本には野外科学とKJ法の育った初心がもりこまれており、現在の発達したそれら(注:後に進歩した諸技法のこと)も、基本的にはこの本で訴えた道を歩いているのである。読み直してみると、いまではもうこのようには書けなくなっているような、それなりの閃きの宿った説明が随所にでてくる。」
この本には、川喜田二郎という人の思想・哲学や、人間の認知に対する洞察や、問題解決の原則論が散りばめられており、詳しく読むと、KJ法を行う目的がおぼろげながら見えてくるのである。
第一章で、彼は次のように述べている。
T 野外科学 - 現場の科学
発想法というものはいったい世の中にあるのか。文字通り考えれば、それはアイディアをつくりだす方法である。そんなものはいかがわしいものであって、いいかげんな思いつきであり、きわものとして取りあげられるのではないかと考える人が多いかもしれない。私もはじめは発想法などを考えるつもりはなかった。ところが、その私のなかにいつのまにか、発想法が存在しうるという見解が成長してきたのである。
発想法という言葉は、英語でかりにそれをあてると、アブダクション(abduction)がよいと思う。この言葉を私に教えてくれたのは、京都大学人文科学研究所の哲学者上山春平氏である。上山氏は、アブダクションという言葉を論理学的な言葉として説明した。インダクション(induction
帰納法)、デダクション(deduction 演繹法)とならんでアブダクションがあるのであり、アブダクションは日本語であてると、発想法といわざるをえないだろうということであった。
この三つの分け方は、ギリシアのアリストテレスがすでに問題にしている。それはアリストテレスによって論理学の三つの方法としてあげられた。それ以来、インダクションとデダクションは連綿として発展させられ、今日まで学問の重要な方法となっている。ところがアブダクションのみは、アリストテレスのせっかくの提唱以来埋もれたままで、現在まで十分に伸びていないという。これが上山氏の見かたである。(同氏談)
それでは最近に、アブダクションという言葉を使った学者がいるか。これも上山氏の著作から教えられたことだが、哲学者パースがそれを唱えている。パースはアメリカのプラグマティズム哲学の元祖のような人であった。その後半生において、彼はとくにこの言葉を使った。彼ははじめヘーゲルの弁証法を軽蔑し、あれは厳密な論理学ではないといっていた。ところが、後半生にだんだん考え方が変わって、事実上、弁証法に共感を覚え、それに関連して彼流の表現でアブダクションという言葉を使った。
字引を引いてみると日常語としてのアブダクションには物騒な意味がある。「子どもをかどわかす」とか、「ひったくる」とか、「他人の奥さんを奪う」などの意味がある。それとも関連しつつ、論理学的には、いろいろな資料から、なにか新しいアイデアをひっぱりだすという意味で使われるわけだ。あるいは、モヤモ
ヤとした情報群の中から、いっそう明確な概念をつかみ出してくる意味合いがある。
パースが取りあげたアブダクションという言葉の意味あいと、アイディアをつくりだす発想法として私が考えているものとを対比してみると、主要な点ではまったく同じところを問題にしているようである。
(後略)
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彼は論理学の三つの方法のひとつとしてアブダクションの存在を念頭におき、
アブダクション= 発想法 = KJ法
と位置づけた。
KJ法は、演繹法ではなく、帰納法でもなく、発想法(アブダクション)を行うためのものなのだ。
このことを明確に意識しないでKJ法を行っても、それは単なる"分類技法"になってしまう。
近年、「アブダクション」や「パース」への関心は高まりつつあるが、川喜田二郎はそれよりも遥か先にアブダクションの重要性と、具体的な技法の提唱をしていたのである。
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